「決める。進める。」都議会議員小松ダイスケのオフィシャルサイトです。

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小松ダイスケのプロフィール

略歴

東京都議会議員(2期)img_profile01

自民党東京都支部連合会 23代、24代青年部長
都議会自民党政調会 会長代行
世田谷区空手道連盟 会長
世田谷区少年野球連盟 副会長
特定非営利活動法人世田谷区ユニバーサルスポーツ振興会 理事長

1977年7月30日世田谷区生まれ。

国士舘大学体育学部を卒業後、(株)リクルートに入社。
2011年より世田谷区議会議員を経て、2013年より現職。
早稲田大学大学院公共経営研究科修士課程修了(2010ー2012年)

【家族】妻・娘(12歳)息子(3歳)
【ルーツ】鹿児島(父:志布志市 母:日置市)
【趣味】登山(キリマンジャロ・モンブラン登頂)
【座右の銘】努力は運を支配する

【役職】自民党東京都支部連合会 青年部長
総務委員会 委員長

【地域活動】世田谷区空手道連盟 会長
世田谷区少年野球連盟 副会長
世田谷区ラグビー協会 顧問
世田谷区スポーツ少年団 本部長

 

 

決意 ~何故、政治家を志したのか~

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昭和52年生まれの私は、いわゆる団塊ジュニア世代になります。私たちが生まれ育った、平成に入る頃までの日本は、理想の国家像に限りなく近い社会だったのかもしれません。

世界第二の大国として経済成長を遂げ、街にはまだまだたくさんの緑と空き地が点在し、子供たちはどこでも泥だらけになって遊ぶことができました。世界一の治安の良さを誇り、豊かな食材と安定した医療体制により、長寿も世界一となりました。大人は忙しく働きながらも、頑張った分だけ所得が増える。未来への不安を感じることが少ない、経済的にも精神的にも豊かな時代。
しかし、この20数年は一転して暗いニュースばかりが続いてきました。誰もが少なからず不安を抱えて生活をしています。

2050年。私は、73歳になります。その時にどんな社会を、東京・世田谷の街を、次の世代に残せるのか───。

「ひとりひとりが人生を豊かにイキイキと暮らせる社会」を創る。

この曖昧な不安に覆われた時代に、政治家として生きることを決めた私の決意です。

幼少期

  • 世田谷区上用賀にある関東中央病院で小松家の長男として誕生。当時「ダイスケ」は毎年一番多い名前の1つ。皆さんお知り合いには必ず1・2人「ダイスケ」さんがいるようで、親しみやすいようです。この仕事についてから名前に感謝しています。
  • そして世田谷区立上祖師谷南保育園入園。「都立祖師谷公園」と隣接していたため、ある意味どこよりも広い園庭でした。
  • 何をやっても、「お前はすごい」という父。泳いでも、計算しても、走っても。だから、自分は「特別なんだ」と勘違いして育ちました。さすがに、中学生くらいで「そうじゃない」ってことには気づきましたが…。
  • 体育教師の母は容赦なしトランプすら手加減なし。7並べが強いのは、この時の英才教育のおかげか。まだ、3つか4つの私に「勝負の世界は厳しい」って言われても…。その反省からか、弟二人にはかなり甘い母です。

 

 

 

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小学校

  • 世田谷区立千歳小学校に入学。健康優良児、6年間無欠席の皆勤賞
    社会の授業が大好きで、調べ物をしに、砧図書館や世田谷区役所へ足しげく通いました。
  • 放課後は叔母の家へ。両親共働きのため、近くで保育園をやっている叔母の家で放課後を過ごしていました。やることがないのでワイドショーを毎日見て過ごしていたため、政治ニュースとか当時の世相にやたら詳しくなり、今日にも活きています。
  • 当時、ビックリマンチョコのシールが流行っていたのですが、じゃんけんでシールを交換するうちにレアなシールを沢山失いました。おかげで、自分には博才がないということを子供のうちに悟ることができました。
  • 絵は下手。ただ、何故か賞をもらえたりしました。「子供らしい元気が絵から伝わります」と講評されたことを憶えています。ただ、高学年以降は今日に至るまで絵で褒められたことは一度もありません…。
  • 「六三四の剣」に憧れて、鹿児島で剣道やっている従兄弟にも憧れて、剣道を高校に入るまで続けました。
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中・高等学校


ー中学時代

  • 背が高くなりたいということでバスケットボール部に入部。丁度、スラムダンクの連載も始まっており、毎週月曜日がモチベーションMAX。
  • 中3の体育祭。クラス対抗リレー。幼馴染が怪我をおして必死にバトンを繋いでくれて、なんとか優勝。リレー中のBGMであり、当時F1のテーマ曲「TRYTH /T-SQUYRE」を聴くと、今でも胸が熱くなります。

ー高校時代

  • 当時、「好きな女の子とずっと一緒にいたい」という安易な理由で同じ高校に入学したのですが、入学式を前に「これから新しい生活が始まるので一度関係をリセットしよう」と言われ、入学前から何故この学校に入るのか目的が見えなくなりました…。ただ、この経験は【全ての選択は自分の責任であり、何事も自分の意思で決よう】というポリシーが出来て、良かったと思います。
  • 高3の秋、テレビ「ハンマープライス」に出演当時大好きだった中谷美紀(女優)さんが作ったワイン(という名の葡萄ジュース)がオークションに。全てのアルバイト代と後輩たちのカンパで購入。とんねるずさんは二人とも背が高かった。そして、中谷美紀さんはとても綺麗でした。
  • 「受験は要領」という本に出会い、受験は要領でなんとかなると思ったのですが、何事も一定の努力は必要であることを、身をもって知りました。

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大学時代

  • 中央大学に入学後、国士舘大学体育学部へ再入学。一度大学を辞めて入り直したために2年遅れているという負い目から、勉強は真面目に取り組みました。そして学業優秀奨学生に選ばれました。【学業優秀奨学生】ということで授業料を免除してくれた母校には感謝しています。
  • いつもジャージでした。体育学部なので。
  • 一限目ソフトボール、二限目サッカー、三限目ラグビー。しかもサッカーは市立船橋や鹿児島実業で活躍してきた同級生。運動の得意(だった)私には最高の毎日。蹴上がりも、倒立歩行も(当時は)出来ました。試験科目だったので。
  • 【色黒=かっこいい】と思っていた。暇さえあれば日光浴をして肌を焼いていました。
  • 大学2年の夏、妻に出会う。初対面から怖くて、それは今も変わらない。
  • 本厚木の有隣堂で偶然、恩師 杉村太郎さんの本に出会い「人生が変わる」と確信した。衝撃のあまり、走って自宅まで帰りました。あの感動は今でも強烈に憶えています。
  • 大学3年の夏、アフリカ大陸最高峰キリマンジャロ(5,895M)に親友タディと登る。
  • 「キリマンジャロのてっぺんでキリマンジャロコーヒーを飲みたい」というのがタディの夢。コーヒー豆とミルを運ぶのはタディ。私はお湯担当。しかし、私はお湯を忘れるという大失態を犯島下。氷点下20℃、高山病にうなされながら3時間ほど登っており、引き返す余力もなく…。あの時のタディにとってはもはや聖水と言っても過言ではない、お湯を忘れたことを告げられないまま…登頂。
  • 登頂の喜びも束の間、タディの眼は明らかに「小松、お湯。早く、コーヒー飲もう」と言っていました。タディの気力は「キリマンジャロのテッペンでキリマンジャロコーヒーを飲む」ことが全てを支えていたのだから、当然です。「ごめん、お湯を忘れちゃった…」そう告げた私への眼差し。あの時のタディの目は今も鮮明に憶えています。
  • そんなタディとアフリカからの帰国後に「東海道五十三次駅伝」を企画TBSラジオさんが番組にしてくれました。当日、急に一人欠員が出てしまい、母に出走してもらう。
  • あ、大学4年生の忘れられない思い出は、友人のお父さんから紹介されてお手伝いした都議会議員選挙。足立区に1カ月半通い(車中泊もしました)ました。それが、高島なおき都議の選挙。絶対いつか政治に挑戦しようと思うきっかけになりました。まさか、この時は将来一緒に働くことになろうとは思いもよりませんでしたが・・・。

 

ー就職活動

  • それまでの人生で一番真剣に取り組んだし、最高の思い出。「リクルートしかない」と、確信して100人の方にOB訪問を敢行。今思えば、忙しい最中に迷惑極まりなかった…。
  • リクルートの最終面接で突然「あなたにはコンプレックスがありますか?」と聞かれたところ、「ありません。それを乗り越えようと頑張ってきたので」と生意気な回答してしまう。「コンプレックスがない、などというような奢ったやつと、俺は働きたくない」と叱られたまま面接は終了。会場から新橋までの帰り道、銀座の街が真っ白に見えました。
  • 土橋の交差点に差し掛かった辺りで、「ダイスケ内定おめでとう」とOB訪問でお世話になったリクルートの先輩から電話がありました。嬉しさのあまり、人生で最高到達点のジャンプをしたはず。人は嬉しいとジャンプするんですね。
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社会人

  • 株式会社リクルートへ入社銀座の本社(G8ビル)勤務だと信じて、さっさと会社の近くのマンションを契約。「春から銀座で一人暮らしだぜ〜」とワクワクしながら、親友とヨーロッパへ卒業旅行。アムステルダムから、母に配属確認の電話をしたら「あなたは名古屋らしいわよ」と告げられる。途方に暮れたアムステルダムの夕焼けは今も鮮明に憶えています。
  • 入社式から2日間の研修を終え、初めて名古屋支社に出社。その日に名刺まで出来ていて「俺もこれでビジネスマン」と意気込んだのも束の間…「明日から【名刺獲得キャンペーン】でその名刺全部交換してきてもらうから」と上司に告げられる。目の前に大量に積まれた名刺の山はキリマンジャロ並みに高く見えました。
  • 「リクルートが日本の企業を支え、その企業が日本経済、ひいては世界経済を支えている。だから、リクルートが世界を支えているといっても過言ではない」と、OB訪問で洗脳(?)というか感銘した私。てっきり、どんな企業・事業者さんからも頼られているものと思って自信満々で街へ飛び出しました。
  • 「お前の名刺なんかいらない」「こんな不景気に人なんかいるか〜!」と少年ジャンプを投げつけられたことも…。途方に暮れて、新栄の雑居ビルの非常階段で見た夕焼けは今も鮮明に憶えています。
  • 3ヶ月の営業職を経て、MP(メディアプロデュース)部という企画部門へ移動。仕事がいつも的外れで、営業の先輩に叱られ、上司には毎朝赤ペンで資料の訂正指示(進研ゼミの赤ペン先生よりも真っ赤でした…)が入り、代理店さんからのクレームを受けた先輩から「お前とは仕事したくない」と言われ、打開策も見えず毎日もがいていました。ただ、あの数年間の経験が今を支える財産でもあります。そんなこんなで、仕事で迷惑かけっぱなしの私でしたが、「最優秀新人賞」を頂きました。
  • このように、仕事の能力はさておき…。上司や先輩・後輩に恵まれるなど、仕事運はいつも良いようで、あの大不況の時代に担当した求人誌(B-ing東海版)の広告売上は過去最高益。移動した先(ガテン)でも過去最高益。つまり、自分の能力と業績や評価は必ずしも連動しないと知る。
  • リクルートで何が一番良かったかといえば、優秀すぎる人に沢山出会えたこと。謙虚とは程遠いように思われる私ではありますが…。リクルート時代に何百回も鼻をへし折られているので、間違っても「俺は優秀だ」なんて気持ちは微塵も湧きません。ただ、そんな優秀な先輩や仲間に認めてもらえた仕事があるってことは、揺るがない自信でもあります。
  • リクルートでの仕事は充実しており、社会人4年目の2005年からは、中国進出事業の担当として、上海に駐在し充実した日々を過ごしてきました。そんな折り、長女が両眼性網膜芽細胞腫という目の小児がんに侵されていることが判明。急遽帰国しました。
  • 世田谷にある成育医療センターで手術と長期に渡る入院生活。仕事も満足に手につかなくなりました。同時に、久しぶりにゆっくりとした時間を過ごすことができ、「これからどう生きていくか」について、じっくり考える機会となりました。
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現在

  • 2011年3月、満を持してというにはほぼ遠い状態でしたが、翌月の区議会議員選挙に挑戦することを決意。始めは駅に立つ勇気がなく、家内と二人でチラシをただただ配り歩く毎日。ある日、帰宅すると我が家のポストには大量のタバコの吸殻が投げ込まれていたことも…。
  • 消防団・商店街・奉賛会・少年野球といった地域活動を通じて、地域の方々と交流が深まるとともに、地方議員としての使命感を更に育んできました。
  • また、越智隆雄衆議院議員とともに、少年野球大会(丸10年)を主催するなど、世代を超えた交流に積極的に取り組んでいます。

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